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ジャコモ・プッチーニ/歌劇「蝶々夫人」

Giacomo PUccini (1858-1924)
Madama Butterfly

あらすじ

「ポスト・ヴェルディ」をめぐる対立

ジャコモ・プッチーニ(1858-1924)は、イタリア中部のトスカーナ州ルッカに生まれました。プッチーニ家は代々宗教音楽家の家系でしたが、ジャコモはその中でただ一人、オペラ作曲家となりました。彼がオペラ作曲家を志すこととなったのは、1876年にヴェルディの『アイーダ』を観たことがきっかけだったといわれています。

イタリア・オペラの黄金期を築いたヴェルディでしたが、その頃すでに高齢で引退しており(後に再度筆をとり、『オテロ』『ファルスタッフ』を作曲)、ヴェルディの後を担う人材として「青年イタリア派」と呼ばれる5人の若者が注目されるようになりました。プッチーニもその内の一人で、彼らは出版社の覇権争いにも巻き込まれながら、次第に対立するようになります。

ヴェルディの中期頃から出版社は著作権絡みで作曲家と契約を結び、作曲家と劇場との間のマネジメントを行うようになっていました。その中で、リコルディ出版社はほぼ独占的な地位を占めていたため、競合のソンツォーニョ出版社はオペラ・コンクールを主催して新人を発掘することでそれに対抗しようとしました。プッチーニは自身初のオペラ『妖精ヴィッリ』でこのコンクールに応募しますが、惜しくも落選。そのプッチーニを拾ったのがリコルディ社でした。青年イタリア派の他の4人はソンツォーニョ社と契約を結び、これが作曲家間の対立を生むきっかけとなりました。

プッチーニはオペラの題材を決めることが苦手だったようで、先人が成功した題材を再利用したり、友人のアイデアを先取りして成功してしまうこともありました。これが一層の反感を買って、対立を深めたとみられています。プッチーニは青年イタリア派の中で最も成功しましたが、彼の音楽が聴衆の心を掴んだことはもちろん、時に手段を選ばず成功するかどうかを嗅ぎ分けるビジネスセンスも持ち合わせていたと言えます。プッチーニはヴェルディ後のイタリア・オペラを代表する作曲家として不動の地位を築いています。

『蝶々夫人』初演の失敗

プッチーニは、『マノン・レスコー』『ラ・ボエーム』『トスカ』と立て続けに大ヒット作品を生み出しました。それに続く渾身の力作『蝶々夫人』でしたが、この初演は何と歴史的な大失敗に終わってしまいます。

失敗の要因は、上演時間が長く冗長に感じられたため、ピンカートンがあまりにもひどい人物で聴衆の反感を買ったため、など諸説ありますが、上演時に反プッチーニ派による組織的な妨害行為があったことが最大の要因ではないかと考えられています。先に述べた出版社間の対立から、妨害行為を行なったのはソンツォーニョ社の関係者ではないかと思われますが、真偽のほどは定かではありません。

初演が行われたミラノのスカラ座に詰めかけた多くの聴衆は、上演前からすでにヤジを飛ばし、歌やオーケストラが聞こえないほどのわめき声や大ブーイングをあげて上演が失敗に追い込まれたことを見届けると、満足気に劇場を後にしたという記録が残っています。初演で蝶々夫人を演じたロジーナ・ストルキオは、拍手ひとつもらえず終演後に舞台裏で泣き崩れてしまいました。プッチーニは彼女の肩に手を置き、このオペラを必ず成功させてみせると誓いました。

プッチーニはすぐに改訂を施し、反プッチーニ派の手が及ばない、ミラノから100kmほど離れたブレーシャのテアトロ・グランデにて再演を行いました。初演からわずか3ヶ月後のこの公演は大成功を収め、特に「愛の二重唱」や「ある晴れた日に」、「花の二重唱」などは観客の歓声を静めるために2回繰り返さなければならなかったほどでした。手が加えられたとはいえこの反応の差ですから、初演の失敗はオペラの内容そのものに問題があったとは考えられません。しかしプッチーニはこの成功に満足することなく、その後も何度か改訂を行い、1906年にパリで初演されたバージョンが決定稿として現在上演されています。

作曲の背景

『蝶々夫人』のもともとの原作は、アメリカの作家ジョン・ルーサー・ロングによって1898年に書かれた同名の短編小説です。ロングの姉は1890年代初頭に長崎に住んでいたことがあり、姉から聞いた「ある一人の日本人女性」の話をもとにこの小説を書きました。その後、1900年にアメリカの劇作家デイヴィッド・ベラスコがこの小説を舞台化し、ニューヨークで初演しました。この初演は好評を博し、すぐにロンドンでも公演が行われました。このときプッチーニは『トスカ』のイギリス初演のためロンドンに滞在しており、偶然この舞台を目にしました。英語での上演でしたが、プッチーニは英語が全く分からないにも関わらず涙を流すほど感激し、終演後にベラスコの楽屋に乗り込んで、ぜひオペラ化させてほしいと頼み込みました。

こうしてオペラ化の承諾を取り付けたプッチーニは、台本を『ラ・ボエーム』と『トスカ』を成功させたルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザのコンビに依頼しました。彼らはイタリアを訪れた女優の川上貞奴に会って日本人女性のイメージをつかんだり、文献や美術品等を収集して日本の風俗についても詳細に調査を行ないました。また、日本のレコードも収集したほか、駐イタリア大使夫人の大山久子が歌う日本の民謡を採譜するなど、音素材についても熱心に研究したようです。『蝶々夫人』は、プッチーニが最も心血を注いだ作品であると言われています。

『蝶々夫人』に登場する日本の旋律

プッチーニが収集した日本の民謡などによる旋律は随所に織り込まれ、このオペラをより一層魅力的なものにしています。日本の旋律は、主に以下の場面に登場します。

■第1幕
越後獅子…花嫁・蝶々さんが登場する直前の、ゴローが慌ただしく駆け込んでくる場面。
君が代…蝶々さんがピンカートンに15歳であることを告げた後、神官や親族が登場する場面。
さくらさくら…蝶々さんがピンカートンに持参品を見せる場面。
お江戸日本橋…結婚式の後、弦楽器がうたう旋律。

■第2幕
高い山から…冒頭、スズキの祈りの旋律。
宮さん宮さん…ヤマドリが登場する場面に用いられる。ヤマドリのテーマ。
かっぽれ(豊年節)…蝶々さんがシャープレスに子どもを見せる場面や、蝶々さんが歌う子守唄などに用いられる。蝶々さんの子どものテーマ。
推量節…蝶々さんがシャープレスに子どもを見せた後、芸者に戻るくらいなら死んだ方がいいと歌う場面に登場する。蝶々さんの死のテーマ。蝶々さんが自害した後にオーケストラの全奏によって悲劇的に鳴り響き、幕を閉じる。

魅力的なのはもちろん日本の旋律だけでなく、例えばピンカートンとシャープレスが「アメリカ万歳!」と歌う場面ではアメリカ国歌が印象的に用いられます。また、ピンカートンと蝶々さんが愛を語り合う「愛の二重唱」には日本の旋律は一切現れず、プッチーニならではの美しく官能的な旋律に溢れています。

蝶々さんのモデル

蝶々さんのモデルとなった人物は、諸説ありますが、幕末に活躍したイギリス商人のトーマス・ブレーク・グラバーの妻ツルではないかという説が有力視されています。ツルの家紋は「蝶」で、蝶の紋の着物を着ていたことから、「お蝶さん」と呼ばれていました。また、ツルとグラバーが暮らした家は長崎港を見下ろす丘の上にあり、物語の設定と一致します。小説「蝶々夫人」の原作者ロングの姉は長崎で学校の教師をしており、その生徒にツルとグラバーの息子がいました。ロングの姉とツルとの間には面識があったと思われ、姉がロングに話した「ある一人の日本人女性」とはツルのことだったのではないかと推測されます。

ツルはグラバーよりも先に亡くなりますが、夫婦愛を全うする人生を送りました。それに対し、オペラの蝶々さんは夫に裏切られ、父の形見の短刀に刻まれた「誇りをもって生きられない者は誇りをもって死ぬ」という言葉どおりの生き様を貫きます。オペラの初演以来、多くの人々の興味を惹いてきた「蝶々さんのモデルは誰か?」という問題ですが、完全にそのモデルとなった人物はどうやらいないようです。蝶々さんの最後は、当時外国人に認知されていた日本人像をもとにした、プッチーニらによる物語としての創作と考えた方がいいのかもしれません。

プッチーニが愛した「蝶々さん」

プッチーニは、彼の作品に登場するヒロインを空想の中で愛し、恋人のような想いを寄せていたと言われています。彼には数々の浮いた話があったようですが、これはオペラに登場するマノン(『マノン・レスコー』)、ミミ(『ラ・ボエーム』)、トスカ(『トスカ』)らヒロインの、幻の生身を求めてのことだったのかもしれません。

中でも、可憐な蝶々さんはプッチーニの一番のお気に入りでした。プッチーニは『蝶々夫人』の作曲中に起こした自動車事故で足を骨折して入院し、作曲の中断を余儀なくされました。この事故を起こしたのは、蝶々さんのことで頭がいっぱいだったためと言われています。事故後に意識を取り戻したプッチーニは開口一番、「可哀想な蝶々さん!」とつぶやきながら涙を流したそうです。後に彼は、「『蝶々夫人』のオペラだけは何度観ても飽きない」「ミミやトスカへの想いは蝶々さんの足元にも及ばない」と語っています。

(Y.H)

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