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アーロン・コープランド/市民のためのファンファーレ

Aaron Copland (1900-1990)
Fanfare for the Common Man

コープランドは1900年、ニューヨーク州ブルックリンにロシア系移民の子として生まれました。 15歳のときに作曲家を志し、21歳でパリへ留学しました。 当時のパリは、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)によるストラヴィンスキーらのバレエ音楽が流行していた時代でした。 その熱狂を目の当たりにしながら「アメリカ的な音楽とは何か?」を模索し続けたコープランドは、アメリカ民謡を取り入れることにその解を見出しました。 現在では、メキシコ民謡を題材にした『エル・サロン・メヒコ』や、バレエ音楽『アパラチアの春』によって、コープランドの音楽そのものが「近代アメリカ音楽」の特徴として語られるほどです。

「市民のためのファンファーレ」は1942年、アメリカのシンシナティ交響楽団の指揮者だったユージン・グーセンスの委嘱により書かれた作品です。 当時は1941年に勃発した太平洋戦争の真っ只中であり、グーセンスは兵士や国民を鼓舞するための愛国的なファンファーレを、コープランドを含むアメリカ人作曲家18人に委嘱しました。 ところが、コープランドが書き上げたのは「市民のための」と題された作品でした。 このタイトルは、フランクリン・ルーズベルト大統領の政権下で副大統領を務めた、ヘンリー・ウォレスの演説にインスピレーションを受けたことに由来するものです。

1942年に行われたこの演説は、当初は”The Price of Free World Victory(自由世界の勝利の対価)”というタイトルでしたが、その内容から”The Century of the Common Man(市民の世紀)”とも呼ばれる演説です。 この中でウォレスは『ある人々は「アメリカの世紀」について述べているが、この戦争の後に迎える世紀は「一般市民の世紀」でなくてはならない』と訴えています。 戦後の世界はアメリカが覇権を握るべきだとの主張に異を唱え、一人一人の市民の声が反映される世界であるべきだと主張したのでした。 ウォレスはルーズベルト大統領の後継者と目されていましたが、1945年にルーズベルト大統領が亡くなった後大統領に就任したのはウォレスではなく、後に日本への原爆投下を承認することとなるハリー・トルーマンでした。

市民の尊厳を讃えたこのファンファーレは、アメリカのみならず世界中の人々の心を動かしました。 グーセンスの委嘱により誕生した18のファンファーレはシンシナティ交響楽団の1942/43シーズンの定期演奏会で披露されましたが、今日まで演奏され続けているのはこの作品のみです。 また、イギリスのロック・バンドのエマーソン・レイク・アンド・パーマーがカバーしたほか、ローリング・ストーンズもライブのオープニングに使用したことでロック・ファンにも知られ、広く親しまれている作品です。

(Y.H)

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