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シベリウスについて

シベリウスはフィンランドを代表する作曲家であるとともに、20世紀を代表する作曲家でもあります。

1865年12月8日、フィンランドの首都ヘルシンキから100kmほど離れた内陸の小都市、ハメーンリンナで生まれたシベリウスは、とても夢想的な子供で、幼少時から自然を愛し、森や湖に遊びに行くことを好みました。父は外科医でしたが、シベリウスが3歳になる前に亡くなり、父の生前の浪費癖のために一家は破産します。この浪費癖はシベリウスにも社交好き、高級志向として受け継がれ、シベリウスもまた人生において何度も経済的な危機を迎えることになります。

当時のフィンランドでは、19世紀初頭まで長い間スウェーデン領だった歴史的経緯から、スウェーデン語が公用語であり、両親ともにスウェーデン人の血を引くシベリウスの家庭でも、スウェーデン語が話されていました。彼がフィンランド語の勉強を始めたのは8歳頃のことであり、11歳になった時には、フィンランドで初めてフィンランド語で授業を行ったハメーンリンナ師範中学校へ通いました。彼は20代になるまで、完全にフィンランド語に馴染んでいたわけではありませんでしたが、子供時代にフィンランド語を学んだことは、後に彼のインスピレーションの源となる祖国の偉大な叙事詩「カレワラ」の神話世界に親しむ上で、大きな意味を持つことになりました。

シベリウスは、5歳からピアノを弾いて作曲のまねごとを始め、14歳からはヴァイオリンに熱中し、やがて室内楽演奏や本格的な作曲にも取り組むなど、早くから楽才を発揮しています。彼はヘルシンキ大学で法律を専攻しますが、当時創設されたばかりの音楽院にも入学してヴァイオリンと作曲法を学び、結局は法科はやめて音楽に専念しました。卒業後はベルリンやウィーンへの留学を経て、「カレワラ」に基づく「クレルヴォ交響曲」の成功を皮切りに、重要な作品を次々と発表し、国内だけでなく、世界的な名声を得ることになります。

シベリウスの初期の作風は、ロシア国民楽派の影響の見られる民族主義的、ロマン主義的なもので、息の長い旋律と比較的重厚な響きが聴かれます。この時期の作品としては、「トゥオネラの白鳥」を含む「4つの伝説曲」(1896、1900改訂)、交響詩「フィンランディア」(1899、1900改訂)、交響曲第2番(1901)、ヴァイオリン協奏曲(1903、1905改訂)など、一般に人気のある作品が挙げられます。1904年、シベリウスはヘルシンキ近郊のヤルヴェンパーに土地を買って家を建て、妻の名をとって「アイノラ荘」と名づけ、以後亡くなるまでそこに住み続けます。シベリウスは1900年頃から彼の音楽を崇拝するカルペラン男爵と知り合い、男爵が1919年に亡くなるまでの間、献身的な支えを受けることになりますが、この引越しも、都会での不健康な社交への耽溺や浪費からシベリウスを守るために、カルペラン男爵が提案したものでした。ヤルヴェンパーへ移った後の中期の作品は、古典的で簡潔な構成が目立つようになり、内省的な雰囲気を漂わせます。交響曲第3番(1907、1908改訂)からその傾向が現れますが、凝縮された厳格な書法は、交響曲第4番(1911)でひとつの頂点に達しました。その後、第一次世界大戦、ロシア革命とフィンランド独立の混乱期以降の後期の作品は、響きの清澄さを増し、構成も一層堅固なものとなっています。交響曲第5番(1916、1919改訂)、同第6番(1923)、同第7番(1924)、劇付随音楽「テンペスト」(1926)、交響詩「タピオラ」(1926)など、この時期の傑作群は他に例を見ない独創性を持っています。中期から後期にかけては、簡潔な構造とシンプルな響きでありながら、初期の感情的な作品よりも、空間的な広がりや、フィンランドの民族性や自然を強く感じさせるものとなっており、まさにシベリウス独自の境地と言えるでしょう。

「タピオラ」以降、シベリウスの創作活動は急に鈍り、以後亡くなるまでの約30年間、ほとんど作品を発表せず、謎の沈黙を守ります。シベリウスは1957年9月20日に亡くなり、国葬が営まれた後、遺体はアイノラ荘の庭に埋葬されました。

(T.M)

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